「おぼっこ」3号(昭和40年3月1日発行)復刻版

『岩大YHGに望むこと』所感

岩手県ユースホステル協会
会長 小野寺 耕作

 齢80に近いS先生が突然訪れられたのでびっくりした。時々街頭でお目にかかってお元気な笑顔には接しているが、職場に見えられたのは始めてのことなので、不思議に思いつつ用件を聞いて二度ビックリした。
 「君はユースホステルというものの会長だと聞いているが俺のような老人でも会員になれるか?」「実は、歩けるうちに君たちの掲げている簡素な旅行により見聞を広めたい。若い時代に全国を廻ってはいるが、余名幾ばくも残っていない現在、もう一度時間と金の許す限り行脚をしたいので、安全第一はユースホステル巡りと考えるが」とのことであった。
 S先生は自分が少壮教員と自称自認した当時の学校長で、自然愛好者としては当時の私にとって最もよい理解者であった。お蔭で今日、「自然に還れ」とか「自然の恵みを体で感じとれ」とか、口はばったいことを言えるのはS校長の助力の賜だと思っているわけだ。
 若い人たちに我々老人、いや先輩が示すことはよい手本であらねばならない。われわれは次代に苦難や悪い遺産を残しちゃいけない。実現できないとしても、心がけだけは持って若者に接すべきと考えている。こんな時にS先生の申し出に接したので、早速会員としての入会手続きをとり、我々の仲間になってもらったわけだ。喜んで帰られた。
 其の後、久しくお会いのチャンスもなく自分の念頭からも消えてしまった。二、三日前のある会合でバッタリお会いしたら、開口一番「お蔭さまだった。ほんとうに楽しい旅をして来た。来年も又出かける。君たちのやっているユースホステル運動について旬日に亙って体得して来た、すばらしい。やれやれ!」と激励された。何をそんなに感じなされたのか具体的にお聞きした、以下其の大略です。

 どこのホテルでも、溌溂たる若者たちのなごやかさの中に、規律ある生活と身についたマナーには、今時の若者はと思っていた感情が百八十度転換した。セルフサービスなのだからとカウンターに立つと、小父さん僕がやりますから、どうぞと一番いい場所に案内してくれる。お茶をついでくれる女のグループあり、夜のミーティングには遠慮しないでお休みくださいよと、楽しそうに歌ったりしゃべったり踊ったりおまけにベット作りまでしてくれた。少しもうるささがない。誰が統制とったんでもないのに、自然に一同が打ち解け合ったフンイキがかもしだされたのには驚いた。普通の旅館で退屈して週刊誌を読んだり、夜の街を見学する旅のムードは今度の旅行でスッカリ変わった。頼もしい若者たちの、北国の者も南国の人も老人も若い子も男も女も、何の屈託もない自由で自然な集いを心から楽しんだ。自分たちが若い時代にこんな組織があったらと、何れ教育者としての大先輩にこんなに感心されたということは単なるおせじとは受け取れなかった。
 当該のホステル・ペアレント、同宿のホステラー達の普通の生活が、S先生をこんなにまで感激せしめたのだと考えるとき、私たちのやっているこの運動は現在の社会が望んでいる方向に進む一翼をもっているということを痛感した次第、照井前会長よりの依頼に答えて所感を述べました。
  岩大グループの発展を祈念して  11月30日
(文が長いので読みやすいように句読点を増やしました。でも、さすが!)

『親睦会』 胃拡張促進
(T3)榛沢 政三
 ワンコソバ食べて詠める歌
  我一人、食いも食ったり70杯   半野吾理太郎
 五月だったか、まだ気温も南国育ちの私には肌寒く感ぜられる頃のようでした。ワンコソバ大会が上の橋と中の橋にある橋のたもとのなんとかという店で開かれました。二年間盛岡に住んでおりましたが、今だかつてワンコソバなるものを食べた経験がなかった為に、ワンコソバとはいかなる物であるかと期待と不安に胸を一杯にして、しかし腹のほうはなるべく空かして行きました。定刻には少々遅れたかと思いますが、まずまずと言うところで部屋に入ったところ、待ってましたといわんばかりに「榛沢さん、お金出してください」と言われてしまったので、しぶしぶながら吾輩の底の浅いサイフをはたいて、どうにかその関門を通過することができました。
 それからどこに座ろうかと、ちょっと思案しました。なにしろ、優雅で上品であると言われている我クラブの女性諸氏の隣りなどに、私の様なヤバンチックな男が座をしめたりしたら、さぞかし御立腹遊ばされる事であろうと思い、又私の方でもその上品に災いされて速度が鈍ると懸念したために、男性の隣りに座ることにしました。
 これからいよいよソバを美人のソバで、ソバの人を気にしながら食べるのだと思うと、なんだかこソバゆいような気がしてまいりました。寮を出てくる時に、ワンコソバは一度に腹の中に高い密度でもって詰め込むのが良い、との忠告をいただいて来たものですからなるべくそうしようと思い、いかにしたら腹の中にフックラと入れるのではなくて、ギッチリと詰め込んだら一番良い方法か?と、それについて思案した結果、二段方式で行くことに決定しました。
 二段方式とは、初めにバンドで腹をキリリと締め、そこがソバで一杯になった時にバンドを緩めて、そこにたまっていたソバを下に下げて、そこに空間をつくり、次のソバをその空間が一杯になるまで詰めるという方式です。
 いよいよ競争だ、という緊張した気持でいた時に、赤ん坊か、子供がまえに付けるヨダレ掛けみたいな物を各人に与えられて、我々一同なんだか‘子供と同じように食べるという人間本来の才能を今日はおおいに発揮して下さい‘という皮肉なる態度をもってむかえられたがごとく、一同悲しんだり、落ち込んだりしたわけであります。でもあれはあまりスタイルよくありませんでしたね。
 でもそんなことをしている内にいよいよ競技開始となりました。うわさに聞いていた通り一口で食べられそうなソバの固まりでした。‘なんでこんな小さなもの‘と、思って初めのうちはソバを持ってくるソバから食っていきましたが、回を重ねる毎に、その一口の量が増えて行く様に思われ、終わりの頃にはその一杯がラーメンの一杯に匹敵するのではないかと思われました。
 女性の方は、だいたいのところ三十杯前後で止めたようです。この止めたという意味は自分の意志を持って、その活動を停止したということであって、別にこれ以上食べると体の調子がおかしくなるというような、自然の形でやめたのではないということです。女性の方は多分、これ以上食べるとソバの人にソバに居るのが恥ずかしいと思わせるのではないかと、又は食べるソバからスタイルが悪くなるのではないかと心配して、止めにしたのではないかと私は思います。だから女性の方も一生懸命食べれば、四十杯ぐらいは誰でも食べられますよ!
 それに対して男性陣は大方五十杯前後の様でした。これは多分、女性がいたのであまり露骨に自分の才能を発揮してはハシタナイと思われる、と思って遠慮したのではないかと思います。中には動物園に居るお猿さんが、人間からもらったキャラメルや、その他の物を腹が一杯になった後に、口の周りについている袋の中にまで貯蔵するのに似ていたようでした。自分の腹の容積はどのくらいなのか、と検査するがごとくに目を白黒させて、あの味も素気も無いソバを、もうだめだというまで腹に詰めたのだから、さぞかし苦しかったことだと思います。
 私もそんな部に属していたのでしょう。六十五、ぐらいまではどうにか食べましたが、それ以上は、押せども引けども、あのわずかしかないソバが、ノドの所を行ったり来たり往復しているだけで、なかなか食道まで入って行ってくれませんでした。私が目を白黒させているのを見て、非常に喜んだ人も何人か居たのではないかと思います。なにしろソバが食道から胃まで続いているとあれば、なかなか新しいソバが入って行かないのも無理からぬことと思います。オーバーに言えば、生死をかけた七十杯目もどうやら食べ終わり、やっとこ自分の責任を果たしたような気がいたしました。でもその後苦しくて、畳に座ることができなくて、しばらく横になっておりました。大会が終わってから「スターファイヤー」に入ってしばしの間、よしなし事の話に花を咲かせていた様です。みなさんも今度の大会にはがんばって下さい。ではサヨナラ。
(やたら「思います」が多いのですが、そこが榛沢さんらしくて、多いに笑っちゃいました。)


『アンケートより』

◆あなたがはじめてカルピスを飲んだのはいつ?

・小生、幼少よりニッカウィスキーを好む。未だカルピスを飲まざるうちにその時間を失す。(山村)
・最初に飲んだのはカルピスコーラだった。即ち不純なものだったな。それがいつであっかはいえない。(中島)



『おぼっこの仲間達』捨遺愚想
(A1)山村達也

 ○旅のこと

 伊勢物語に始まる旅のイメージは、西行・芭蕉を経て、常に或る憂いを含んでいる。「みづからを やふなきものにおもいなして云々」と言い、「旅人とわがなよばれん はつしぐれ」と言う、自らを嘲笑する言葉の裏に、社会にそぐはざる人間の孤独の心を感ずる。彼らは社会から逃れんむとして、逃れ得たであろうか?逃れられはしない。彼らの往く処、必ず人間が住み、生活している。しかし彼らは‘都‘という地域社会を逃れ得た。それで良いのではなかったか。彼らと同じく、我々も大きな人間社会からは逃避出来ない。亦、人間社会を彷徨すればこそ旅(放浪)となるのではないか。さすれば我々の旅とは、完全な社会からの逃避ではないだろうか。
 今日我々は、あまりに閉鎖された小さな生活圏に、密着しすぎて居わしないか、家庭、学校、それら最も小さな社会が、真に考えるべき全社会とさえ錯覚する程である。しかし我々は、未知の大きな世界があることを知っている。しかも我々は、この閉された安逸さに飽きているのである。そして、旅とは、人間の高みに昇らんと欲する本能が、自らの閉された小社会たる母胎から出でんとする如きものではないだろうか。トラベルとは、ギリシャの‘陣痛の苦しみ‘にその語源をたどれるとか、古代の彼の地の人々も亦、「旅は憂きもの辛きもの」と考えていたのであろう。しかし、実際はこの苦しみは、母の苦しみではなく、生れんとする胎児の心の苦しみではないのか。旅につきまとう名状し難い、不安と期待とは、あたかも安らかな母胎から、この未知の不可解な世界への脱出を思わせる。
 それはともかく、旅とは何かからの脱出であるに違いない。行為には必ず目的があると信ずる我々は「何の為に・・・」と問ふ。勿論、未知の物事を直に見聞し、正しい判断を下す為の透徹した目を養ふことも、一つの効用であろう。しかし、生かし生きることにその目的があるとしたら、旅も亦、その高みへの飛翔それ自体に目的があるのではないか。
「なんでも見てやろう」という言ふのも、十二分に結構である。しかし亦、雲曰く遊子悲しむの風情も捨て難いものがあるように思ふのである。
 「前略 だがしかし真実の旅人とはただ旅立つために旅立ってゆく人々だ。軽気球に似て、軽々と心は揚がり、その宿舎からは永久に離れられられぬに、何故かは知らず。「さあ、行こう」といつも叫んでいる。後略
 ボードレール 「悪の華」中‘旅‘より  鈴木信太郎訳
(古い仮名使いもそのまま載せました。いかにも山村さんらしい文章ですね。)


『おぼっこの仲間達』一人ぼっちの山
(T3)中島常雄

 山が好きだということは、それは人が好きだ、人が恋しいということある。
 人が泣いたり、怒ったり、夢中になったり、嫉妬したりして、云わばみにくい面をさらけ出せば出すほど、山は美しくなり高いものになる。単行動をしたことのない人は気の毒だ。いつも仲間とワイワイいいながら登っているようでは、いつのまにか他人の力を頼ってしまうし、自分をきびしい自然の中で鍛えられない。又、自然を深く知り、その美しさ、楽しさをも知ることはできない。
 私は一人で山に行くことが多い。それは山が美しいからであり、好きだからである。私は独占欲が強いからかもしれない。美しく、好きなものは独占したい。これが人間だといってはいいすぎであろうか。俗界を離れて、一人になりたくて山へ登っている時に、気がつくと自然に陶酔しているのではなく、「人」のことを考えていることがよくある。自分は本当に独りになりたくて山へ来たのだろうか。否、「人恋しさ」の故に山に来たのだ。
 たった独りで山を歩いているとき、それを自分が望んで独りで来たはずなのに、無上に淋しいときがある。それは登る前に自分に何かが起こったときはなおさらである。そんな時に限って天気は悪くなり、頂上は遠い。そして山は強く、大きく、私を受け付けてはくれない。そんな時私はたとえ頂上をふむことが出来ても心は晴れずすごすごと山を下りる 私は決して、淋しさをまぎらわすために山に登るのではない。もっともっと自分は苦しまなくてはならない。苦しめたいのではない。自分を耐えねばならない。そしてそれを越えて大きくなりたいのだ。
 私は岩手山にばかり何回も行くのは、登山回数の記録を作りたいためではない。この山が好きだからでもあるが、いちばんきびしく、苦しめられるからであるかもしれない。
 山への愛は一方的である。又、山に自分を愛してくれとは期待しない。なのになぜ人は、人に対して愛されることを期待するのであろうか。ある人がこういいました。「愛されることは銀であり、愛することは金である。」と。
 私は山に対すると同様愛されることを期待せず、純粋に愛することが出来たらどんなにすばらしいいだろうと思う。山はそんなに愛しても傷つくことはない。だが、人を愛することにより、愛すれば愛するほど自分又は相手をも傷つけることがある。愛は慎重でなければならない。

(この中島さんは意外でした。でも、らしいのかも・・・?)


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