草創の頃 二代目会長 橘 紘武
(昭和38年卒) 四国の地にも、また春が訪ずれ、ついこの間まで燗漫と咲き誇っていた桜花も何時しか葉桜となり、日々に青葉を増している。岩大YHGも五周年を迎えると知らされて、新ためて日々の経過の早さに驚いている。グループの方は年々着実に成長していると聞いておりますのでなによりである。五年目ともなると私の頃とは違い活動にも別の苦労があることと思う。それにしても、小生が四年であった時の一年生の可愛い坊やお嬢ちゃんが今や御老体呼ばわりされていると思うと、我が身を顧みず愉快なことである。本当に年寄りの暮らしにくい世の中となりましたね。それにつけても彼等を区切りとして私にとって直接知ることのなかった人達によってグループが受け継がれて行くことになにかしらさびしさを感じる。この思いは、年々繰返されることでしょうが、OB会の成立委員会で問題となった我々のユースホステルの建設が実現出来たらどんなにか素晴らしいことかと思う。 前置が長くなったが、この特集号の編集委員の方から二代目回顧録という題で原稿を書いてくれとのこと、アルバムなどを開きながら振り返って見た。もともと旅行が好きで、このグループに入るまでは気ままな一人旅を楽しんでいた。特に自転車旅行が好きで、一時は自動車や汽車には乗るまいなどと考えていた。いつでも気軽に、意のままに行くことが出来て、徒歩よりは行動範囲が広い。そんなところが性に合ったのか自転車とは長い交際(つきあい)だった。 好きで一人旅を選んだわけではなかったが思いつきで突然に出かけることが多かったことと、同じような馬鹿が見つからなかったからである。無鉄砲に近い旅行ではあったが、未知の自然と社会は若い興味を引きつけるには十分だった。無銭旅行に近いやり方だったので、野宿するつもりでいたが、日暮れになって適当な場所が見つからず、どこかいい所があるだろうと思い、夜中の十二時頃まで乗り続けたこともあった。ある町は、俄雨に会い道路際の家にあわてて飛び込んだら丁重にもてなされ、恐縮したこともあった。こんな自転車旅行を通じて、ユースホステルの存在を知った。利用したホステルの最初は十和田ホステルで、近所のキャンプ場で夜を送り、朝食の用意がなくホステルで食べることが出来ると聞いて出かけた。何も予備知識がなく、食券を買った後、どうしたものかと困ったが皆が食事を運んでいるので、坐っていても持って米てくれないらしい、それではと運んで来た。前で食事をしているお姉様方が、うすきたない服装の私を盗み見るものだから、どうにも気になって、どこに食べたかわからないうちに平らげてしまった。さてそれでは出発しようかと思っていると、かのお姉様方は、食器を運んで行き自分達で洗っている。それではと真似をしたが、なんとも落ち着かない朝だった。この頃の自分にとってユースホステルも高級な宿舎にしか見えなかった。その後ユースホステルとはどんなところかと思い本などを調べ入会したいと思っていたが、そのままになっていた。 私が三年の六月、設立総会が開らかれたが、この時には忙しくて参加出来ず、夏休み後のある日集会に顔を出した。この日からユースホステルグループは切っても切れないものになった。この頃グループでは会長の小林さんを中心として四人の侍が中心になっていた。この四人は応化の同級生であり、下宿まで同じで、各々独自の持味を出して、その分野でグループを軌道に乗せるのに努力していた。この四人の結びつきが、サークルの存続を可能にしたと思う。秋のホステリングが蔵王に決まり、その準備会が小林さん達の下宿で開かれ、夜遅くまで話し込むことが多かった。あの頃のグループの雰囲気が上級生下級生の別なく気概に話し合えるものであったのも、このような準備会に一年から四年まで参加出来たことにあったと思う。 初期のグループの構成人員のほとんどが、他のサークルに加入している人達であった。特にワンゲルに入っている人達が多く、これが大きな問題となった。性格的に類似点が多く、このYHGとしてのサークルの性格づけのために、各人苦労もし、また皆で夜遅くまで討論した。集会所は般教の教室やサロン北斗が使われた。蔵王ホス後、会長を引き受けた私にとって問題となったのは、ワンゲルと二足革靴をはいている会員をいかにして引き止めて置くかということであった。設立まもないグループで経験を積んだ部員が少なかったので、野外活動的面の強いこのグループにとって彼等の存在は必要であった。一般部員として両方のクラブに入っていることは、まだ問題は少ないがその後指導者としてグループを運営して行くためには、両方に入っていたいという彼等の気持もわからぬではなかったが、到底出来ない相談でした。自分のことなら問題はないが他人の気持をなんとかYHGの方にむけようとすることは、むずかしいものである。なんだかんだとお互いに話し合ったり、相談したりしたが、結局数人は離れて行ったが、大半はやがて落ち着いた。これには長い期間を要したが、この時に自分は本当に安心してこの愛すべきグループにわかれを告げることが出来ると思った。二代目会長として小生に要求されているのは、しっかりした後継者をつくることであり、彼等の活躍の基盤をつくっておくことであった。三代目に会長を引き継いだ後も、老体をさらして会合やホステリングに参加し統けたのも、この上なくグループを愛していたからで、上記の目的を達成したいためであった。 振り返って見ると、私はサークルの活動面に於いて、何一つまとまったことをしていなかったと思う。いろいろな分野に火をつけてそのままほっておき、その後の活躍に期待するということで、その雰囲気をつくることに主眼点があったように思う。グループ設立から三年間は、未開の地に鉄道を敷設した開拓期であり、一通り軌条の整備が出来て、初めて開通式が行なわれたのが照井君が会長の時からではないかと思う。これらは途中に町を造ることも良いであろうし、また支線を延ばすことも考えられる。しかし、この本線は開拓期に急いで敷かれたものであるから、今後これを利用する人達は軌条および道床の整備をわすれてはいけない。途中まわり道している所もあるので、時代の要求に合せて、トンネルを堀ったり、鉄橋をかけたりして、基盤の確立された大動脈とするために努力する義務がある。 話が過去から未来へと渡ってしまったが、ここでまた過去にもどすことにする。アルバムを開くとホステリングの写真の多いのに気づくがそれにつけて、写真の焼付のために、真夜中まで、時には朝まで暗室ですごしたことが思い出される。また八ミリ撮影は蔵王ホスから始めたが、その時は個人的に撮影機を持って行ったもので、私の腕にしては比較的良く写っていた。これが好評でその後のホステリングには記録として用いられるようになった。スチール写真と違っていつでも手軽に見るわけにはいかないが、動くという魅力は絶対である。特に表情の変化は種々のユーモラスな場面を記録することとなり、映写しては大笑いしたものです。これも編集には、一苦労で、折角苦労して撮影した箇所が露出不適正でカットしなければならなかったり、バック音楽を入れるためにテープレコーダーにふきこんだが、画面と同調しなかったことなどなつかしく思い出される。 (おわり)
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